ギリシャ旅行 −ギリシャの風景から得た印象とその考察− 

k3182006-12-31

 
 学生時代に、はじめて欧州を旅行し、ギリシャ
アテネに5日間ほど滞在したことがあります。
そのときの旅行で、一番記憶に残っている事物は、
パトラからアテネへ向かう列車の中から眺めた
透き通ったエメラルドブルー色のコリンティアコス湾でした。
 
今回のギリシャ旅行の中では、マラトンからの帰り道である
ペタリア湾の海岸に立ち寄って、たまたま夕暮れ時でもあり、
エメラルドブルー色の海を観ることはできなかったのですが、
アテネ国際空港からミュンヘンに向かう飛行機の中でじっくり
透明感のある紺碧のイオニア海を確認することができたので、
非常に懐かしく感じたのです。
 
ギリシャといえば、白い大理石の建築と、紺碧の地中海、
白い石灰岩オリーブの木々が生える山という観光の国という印象で
語られることが多く、古代ギリシャ文明が栄えた土地ということは、
誰もが熟知しているところです。
 
そのような固定観念に近いイメージで語られることの多い
ギリシャが、はたして昔から、このような国であったのかを確認してみたい
ということが建築物見学とともに、私の個人的研修テーマでした。
古代文明が滅びた真の理由は、森林の木を伐り尽くしてしまったこと。
そして、古代の都市国家と近隣諸国との間に起きた戦争の真の原因は、
森林の奪い合いであったことを、現在のギリシャの風景をよく眺める
ことによって感じ取りたいという意味です。
 
最近はイタリアの沖合いでマグロが採れるという話を聞いたこともあり、
旅行中の夕食に鯛の塩焼きが出てきたので、驚きでありました。
地中海は古代より交通路以外の何ものでもない痩せ海であるといわれてきたからです。
 
日本の海は豊穣の海です。黒潮が流れていて周辺の海からは多くの魚が
とれますが、日本の海と比較すると、地中海における魚の量はとても少ない。
博物館で古代ギリシャ文明の土器や壁画を実際に観てみると、
タコやイルカの絵などが多く描かれていて、古代の地中海には
魚介類が豊富であったことがよくわかります。
プランクトンの栄養分になるミネラルは、森林がある山の川の水に多く
含まれるのであり、古代のギリシャは森林が豊富であったということが
うかがわれるのです。
 
1万2千年前の晩氷期には、西アジア一体はイネ科、ヨモギ科などの
大草原が広がっていたことが、花粉分析により、明らかになっています。
氷河期が終わると気候の温暖化にともない大森林地帯となりますが、
人口が増え、青銅や鉄の精錬、土器を焼き、貨物船、軍船の製造のために
森林の伐採がすすみ、森林は消滅していきました。
ミケーネ文明(3600年前から1100年前ころ)、そして
ギリシャ文明(2700年前から2300年前ころ)の時代は
花粉分析によれば、森林破壊期にあたります。
 
古代文明の時代、3500年前までは「蛇信仰」がさかんであったため、
博物館では、土器や、彫刻などには蛇の姿がさかんに用いられているのを、
観ることができました。
 
「蛇」は「豊穣」や「闘争」のシンボルであり、大自然を畏れる 多神教
人間の精神を表現していたものです。
日本の注連縄も蛇が絡み合う姿を表現したものです。
 
ところがギリシャでは、3500年前を境にして、天候の神に対する
一神教が盛んになります。
この時代以降の彫刻や、絵画にはメドゥーサなどの「蛇殺し」が、さかんに
描かれるようになったのです。
アテネパルテノン神殿の博物館にも、蛇の彫刻がありました。
 
3500年前ころから次第に人間が自然を支配していいという考え方が
強くなり、森林を破壊することにつながっていったように推測できます。
ユダヤ教(3300年前ころ)やキリスト教一神教の代表です。
このことが欧州全体、アメリカ大陸の森林破壊につながったともいえると思います。
欧州諸国は、ブナやナラなどの大森林地帯でしたが、地中海沿岸の
森林破壊のあと、中央ヨーロッパの森林の破壊されつくしたころから、
マツなどの人工林を再生させたのです。
 
木を伐りつくしたまま、植林しないところでは、農業、漁業、貿易、造船、
建築のすべての産業ができなくなり、人間が生活することができない
土地となり、そのような国や文明は滅びてしまいます。
 
デルファイの古代のアポロン神殿の前室には、「 汝自身を知れ 」という
格言が掲げられていました。
これは、ギリシャ七賢人の中の一番の哲学者タレス(B.C.624頃〜546頃)の 言葉です。
現在の遺跡に その壁はありませんでしたが、
「 自分が無知であることを自覚し、その自覚に立って、
  真の知を得て、正しく行為せよ 」 という意味です。
歴史を正しく学び、過ちをおかしていることに
気がついたのなら、新しく進むべき道は開けてくるという意味にも
解釈することができます。
 
環境と建築、人間の精神と美術意匠、古代の歴史について、
旅行に出発する前のさまざまな調べ物や、旅行のなかで現地の事物を
実際に観て、多くのことを確認することができ、とても有意義な
旅行であったと思います。
 
日本国にとって、農林水産業は一番大切です。
なかでも、林業は非常に重要です。
高層木造建築物や大型木造帆船を 建造することができるような
高木に成長する木を植林して、豊かな森林を再生維持することが大切です。
 

岩崎邸の見学に行ってきました。

k3182006-06-23

         
http://www.uraken.net/rail/travel-urabe75.html
 台東区池之端にある旧岩崎邸を見学して来ました。
明治29年 ジョサイア コンドル設計の洋館です。
三菱財閥創始者 岩崎彌太郎の長男で
第三代社長 岩崎久彌 男爵の邸宅です。
戦前の三菱の雰囲気を身体全体で感じ入りました。
この洋館と接続している日本家屋で 男爵が
どのように生活していたか本で読みました。
終戦前まで日本で一番のお金持ちで、
自分の居間が20畳で次の間が10畳くらい。
そのなかに朝から晩まで居ました。
外へ行くと付き人が10人くらいついてきて
トイレに行くときも2人くらいついてきたそうです。
奥様の寧子さんはダイヤの指環だけでも約500個、
それ以外にダイヤの首環、胴環、膝につける環も
持っていました。
用事をするのに邪魔になるので身につけなかったそうです。
奥様の寧子さんは 岩崎久彌 男爵が 家庭内をいつも
清潔に保ってくれていたことに とても感謝されています。

http://www.mitsubishi.com/j/history/index.html
http://www.mhi.co.jp/nsmw/html/siryoui.htm
初代の岩崎彌太郎は、幕末 地下浪人からはじまり、
明治新政府に大きく貢献して、大商人へと成長していきました。
 
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog475.html 
http://www.youtube.com/watch?v=PxTyjentRso
かつて ハワイ王国が存在していた事を決して忘れてはなりません。
 
 英霊達に心からの感謝と哀悼の意を表します
 

諸戸邸の見学に行ってきました。

2代目 諸戸清六 邸

 
 桑名市の諸戸邸へ行ってきました。
初代の諸戸清六は1846年、三重県 桑名郡 木曽岬町 加路戸新田 の
諸戸家に長男として生まれました。
諸戸家はこの地で代々庄屋を営んでいましたが、
清六の父・清九郎の時に商売に失敗し、
身代を潰してしまい、桑名市へ移住します。
清六は桑名という地の利をいかし、米の買い付けを始めました。
そして昼夜を問わぬ激烈な働きぶりで、わずか3年で
すべての借金を返済したのでした。
明治21年には山林や田畑の大地主として日本一となり
「山林王」と呼ばれたのです。

初代 清六 の四男 清吾( 二代目 清六(1888〜1969))は、
大隈重信のもとに預けられ早稲田中学に通っていましたが、
初代 清六が明治39年急逝し、桑名に呼びもどされます。
初代 清六の代から廻船業において三菱を応援しており、
関係が深かった岩崎家にならって、
建築家ジョサイア・コンドルに自邸の設計を依頼し、
諸戸家の洋館( 担当 桜井小太郎 棟梁 伊藤末次郎 )が竣工したのは大正2年のことです。
19世紀末の英国に現れたアール ヌーヴォーやアーツ アンド クラフトなどの、
歴史的な様式からの脱却を目ざした若々しいデザインとなっています。